旅と史跡の記録

丸岡城

丸岡城天守

■概要■

北陸地方に残る唯一の現存天守。丸岡藩主・本多氏、有馬氏の居城。

石垣

天守内

天守からの風景

丸岡城模型

お静慰霊碑

霞ヶ城 由来の井戸

石製しゃち

■見どころ■

北陸地方に残る唯一の現存天守。犬山城と並んで、最古の天守閣といわれている。また、人柱・お静の慰霊碑、井戸の中から大蛇が現れ霞を掛けて城の危機を救ったという伝説のある井戸、丸岡歴史民俗資料館などがある。

■歴史■

織田信長が一向一揆平定のため丸岡城の東方約4kmの山中にあった豊原寺を攻略すると、柴田勝家の甥・柴田勝豊が豊原城を築城。天正4年(1576年)に豊原から丸岡に移り、丸岡城を築城した。その後、柴田家の家臣・安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、青山氏が関ヶ原の戦い後で西軍に与したため改易となると、結城秀康・松平忠直に仕えた今村盛次などが城主となり、更に盛次が越前騒動で改易となると、慶長18年(1613年)本多成重が赴任し、寛永元年(1624年)福井藩から独立して丸岡藩初代藩主となる。元禄8年(1695年)有馬清純が入封となり、幕末まで有馬氏が藩主となった。
版籍奉還後に廃城となる。天守閣は買い戻され解体を免れるが、屋敷や門は売り払われ堀も埋め立てられた。さらに、昭和23年(1948年)の福井大地震で天守が倒壊。昭和30年(1955年)に元の用材80%を組み直して利用し、修理復元された。

■逸話■

井戸の大蛇:豊原は一向一揆の最後の根拠地だったため、丸岡城築城後も残党が攻撃を仕掛けてくることがしばしばあった。その度にこの井戸から大蛇があらわれて城に“かすみ”をかけて城の危機を救ったという伝説があり、この話が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以であり、現在も春先などにすっぽりと“かすみ”に覆われるのを見ることができるという。
人柱お静の伝説:築城の際、天守の石垣が何度積んでも崩れてしまうため人柱を入れることになり、選ばれたのは2人の子を抱え苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。お静は片方の子を侍に取り立ててもらうことを条件に人柱になるが、城主だった柴田勝豊は他の場所に移封になり、約束は果たされなかった。毎年、年に一度の藻刈りの時期に春雨で堀に水が溢れ、それを人々は「お静の涙雨」と呼び、小さな墓を立てて霊を慰めたという。

■観光情報■

所在地:  福井県坂井市丸岡町霞町1丁目59 
アクセス:  京福バス 丸岡城バス停 徒歩すぐ 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり