旅と史跡の記録

西郷頼母邸跡

西郷頼母邸跡

■概要■

会津藩家老・西郷頼母邸跡。 会津戦争の際、西郷頼母の妻・千重子をはじめ親族21人が自刃した。

■見どころ■

鶴ヶ城正面に位置する家老の屋敷跡。西郷頼母邸建物は会津武家屋敷に復元されている。

■歴史・逸話■

西郷頼母は家老として藩主・松平容保に仕えた。会津藩が引き受けた京都守護職の責務に否定的で、辞退を進言するなどしたため容保の怒りを買い家老職を解任されるが、戊辰戦争の勃発により復職し、白河口総督として白河口の戦いに参加する。新政府軍に押され敗戦が続き、城に帰参した頼母は容保の切腹による会津藩の降伏を進言したため、容保、会津藩士らが激怒。身の危険を感じた頼母は会津を出て逃亡した。新政府軍が会津城城下に侵攻してくると、家族ら21人は邸宅で辞世の句を残して自決している。

■ガイドパネル■

「戊辰8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急いだ。 西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千重子が長男・吉十郎を城に送り出した後、一族を集め、幼い者や子女は足手まといになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58才)をはじめ、季子(2才)までの21人そろって辞世の句を詠み自刃した。」 「この日、領内では、230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなった。」(抜粋)

■観光情報■

所在地:  福島県会津若松市追手町5−3 
アクセス:  北出丸大通りバス停 徒歩約1分 
御朱印/御城印など:  - 
オフィシャルサイト: なし