旅と史跡の記録

水戸城跡

水戸城薬医門

■概要■

徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城。

三階櫓跡

本丸跡広場

杉山門

柵町坂下門

■見どころ■

現在は本丸跡には高校となっていて、安土桃山時代に建立されたと推定される薬医門が移築復元され現存する。水戸城跡二の丸展示館、御三階櫓跡、三の丸跡には藩校・弘道館などがある。また令和2年(2020年)に復元された水戸城大手門がある。

■歴史■

平安時代末~鎌倉時代初期の馬場氏の居館が前身とされる。その後馬場氏に代わり江戸氏、佐竹氏の居城となる。慶長14年(1609年)、徳川家康の11男・徳川頼房が水戸に転封となり、初代水戸藩主となった。建物は昭和20年(1945年)の空襲で焼失。現在は土塁や堀、三の丸の藩校弘道館や薬医門などが残っている。

■逸話■

水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府の大名だった。また、水戸藩で生まれた「水戸学」は、幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。

■ガイドパネル■

水戸第一高校前のパネルより:
水戸城は建久4年(1193)源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾を任ぜられたのに始まる。以後、馬場大掾氏は九代約240年間、下の丸(現本校運動場)の辺りに居館を構えた。嗣いで那珂道辰の子孫、河和田城主江戸道房が大掾満幹の留守に水戸寿を占拠、それ以来7代、165年間、江戸氏が支配した。当時は内城、宿城と浄光寺の3つの曲輪より成っていた。天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討伐、本拠とした。佐竹氏の時代は、慶長7年(1602)義宣の秋田移封まで僅かに13年。この間、内城を古実城と称して本丸化し、宿城を二の丸(現水戸三高・水戸二中・茨大付属小)とするなど曲輪を整えた。城の出入口も東側から西側に移し、橋詰門を建て、また二の丸に大手門などを造った。17世紀初め、甲府の武田信𠮷や徳川頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)、家康の11子頼房が城主となり、その後、徳川氏は江戸定府ながら光圀(第2代)、斉昭(第9代)を経て昭武(第11代)まで約260年間35万石の水戸領を治めた。明治4年(1871)廃城。徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓があった。本校の前身茨城県尋常中学校がこの地、本丸の城址に新築、移転したのは明治29年(1896)9月、後に水戸中学校となり、昭和20年(1945)九州で全焼同23年に現材の水戸第一高校となる。空堀と土塁の一部と復元された橋詰門が城址の名残りをtどめている。

■観光情報■

所在地:  茨城県水戸市三の丸3丁目10−1 
アクセス:  JR常磐線水戸駅 徒歩約12分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: なし