旅と史跡の記録

一ノ関城跡(釣山公園)

釣山公園

■概要■

古代から軍事上の要塞で、一関藩田村氏の居城。

千畳敷

田村神社

日本庭園

田村藩主の井戸

■見どころ■

一関藩田村氏の居館は現在の盛岡地方裁判所 一関支部がある辺りで、釣山は田村氏の居館を見下ろす高所に位置し、山中には山王社、稲荷社、松樹堂(孔子の聖廟)が勧請された。現在は井戸や稲荷社が残り、頂上には千畳敷と呼ばれる平坦地があり、日本庭園などが公園として整備されている。また千畳敷には江戸田村屋敷にあった坂上田村麻呂を祀る田村神社を大正期に移築したものがある。

■歴史■

釣山は古代から軍事上の要塞であり、高崎城とも篠見山とも呼ばれ、大同年間(806~810年)には坂上田村麻呂の陣地、天喜年間(1053~1058年)には安倍貞任・磐井五郎家任の砦(前九年の役)、康平年間(1058~1065年)には源頼義・義家親子の篠見山陣地、天正年間(1573~1592年)には葛西氏家臣・小野寺道照の居城となった。葛西氏が奥州仕置により滅亡すると伊達氏の支配下となり、伊達政宗の叔父・留守政景が一関城に入った。江戸時代には仙台藩から分封して一関藩となり、初代藩主。伊達宗勝が入城。伊達騒動(寛文事件)で宗勝が配流となると一時仙台藩領に戻る。天和2年(1682年)に伊達家分家・田村建顕が一関藩主として移封し、以後田村氏が明治維新まで藩主となった。

■ガイドパネル■

天和2年(1682)、田村建顕が仙台藩の支藩一関藩3万石の大名として入部しました。その際に築造された居館は、古来の館や堀は使わず城の構えに見えないようにと江戸幕府から指示があり、釣山の北東側に簡単な堀と白壁を巡らせた形としました。内部は、西側が田村家の生活する場所として、東側が一関藩の政治を行う場所として主に使用されていました。
明治4年(1871)、一関県が成立した際には県庁として利用されましたが、それまであった建物は取り壊されたり払い下げられたりしていきました。明治9年(1876)に岩手県へ編入されてからは、裁判所や郡役所などが置かれました。現在は、盛岡地方裁判所一関支部などがあり、また一関市城内として地名が残っています。

■観光情報■

所在地:  岩手県一関市釣山 
アクセス:  JR東北本線一ノ関駅 徒歩約10分 
御朱印/御城印など:  なし 
オフィシャルサイト: なし