旅と史跡の記録

山本権兵衛・山本英輔誕生之地碑

誕生之地碑

■概要■

山本権兵衛は海軍大臣、総理大臣を務めた人物。山本英輔は山本権兵衛の甥で、海軍大臣などを務めた。

■歴史■

山本権兵衛は、嘉永5年(1852年)生まれで16歳の時に18歳と偽って戊辰戦争に参加。のちに海軍兵学校へ進み、第2次山県内閣、第4次伊藤内閣、第1次桂内閣で海軍大臣を務めた。大正2年(1913年)総理大臣となるが、シーメンス事件(ドイツのシーメンス社による日本海軍高官への贈賄事件)により辞職。大正12年(1923年)再び就任するが、皇太子の暗殺未遂事件で辞任した。
山本英輔は山本権兵衛の兄の長男で、海軍大将などを務めた。

■ガイドパネル■

山本権兵衛:16歳の時18歳と偽って戊辰戦争に参加した後、海軍兵学寮に入りました。1874年(明治7年)西郷隆盛を追って鹿児島に帰ってきましたが、西郷の勧めで海軍兵学校に進み、卒業後は軍艦「天城」などの艦長を務めました。1898年(明治31年)、第二次山県内閣の海軍大臣となり、七年間海軍の最高責任者の地位にありました。この間、日露戦争の際には、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命しました。1913年(大正2年)、総理大臣となり行政の整理などを手がけましたが、シーメンス事件(汚職事件)が起こり辞任しました。1923年(大正12年)、関東大震災当時また総理大臣になり、東京の復興に努力しましたが、虎ノ門事件(摂政の宮狙撃事件)が起こり、その責任をとって辞任しました。心が広く、小さいことにこだわらない、さっぱりとした、ユーモアのある性格だったといわれています。
山本英輔:陸軍大尉吉蔵(山本権兵衛の兄)の長男として生まれ、英輔が一才の時、父吉蔵は西南の役で武岡にて戦士しました。明治26年、海軍兵学校に入学。明治37年、日露戦争の際は第二艦隊上村提督の参謀大尉として出征し、蔚山沖海戦、日本海海戦に活躍しました。明治42年海軍大学教官。大正12年同校校長。昭和四年連合艦隊司令長官となり昭和6年には海軍大正となりました。

■観光情報■

所在地:  鹿児島県鹿児島市加治屋町16−12 
アクセス:  鹿児島市電 高見馬場駅 徒歩約5分 
御朱印/御城印など:  - 
オフィシャルサイト: なし