旅と史跡の記録

船岡山慈眼寺

慈眼寺観音堂

■概要■

白鳳年間創建の寺院。小千谷談判の会談の地。

山門

本堂

本堂3

会見の間

■見どころ■

本堂の奥に、新政府軍軍監・岩村精一郎と、長岡藩家老・河井継之助が講和談判を行った会見の間が残っている。平成16年(2004年)の新潟県中越地震により会見の間を含む本堂が全壊したが、平成18年(2006年)に復旧した。

■歴史■

白鳳年間(672~685年頃)、薩明大徳によって国家鎮護の道場として創建されたという寺院。本尊・聖観世音菩薩(船岡観音)は大同年間(806~810年頃)に教えを広めにきた弘法大師が彫ったものと伝わる。 元禄4年(1691年)には本尊を江戸で出開帳したところ評判になり、5代将軍・徳川綱吉も参詣し供養料に和歌1首を書いた扇子を添えて奉納した。この扇子は寺宝として現存している。

■逸話■

慶応4年(1868年)5月2日、本堂右側上段の間で、新政府軍軍監・岩村精一郎と、長岡藩家老・河井継之助が会談したいわゆる「小千谷談判」が行われた。 新政府軍の侵攻を止めたい河井は藩主の名で書かれた嘆願書を持参したが、岩村に一蹴され、長岡藩は新政府軍と開戦する。

■ガイドパネル■

「慶応4年(1868)5月2日。長岡藩家老河井継之助と新政府軍軍監岩村精一郎が、ここ慈眼寺で談判をした。 談判は、両軍の開戦を決するかどうかであったが、同時に明治維新の理想を問うものでもあった。河井は中立の立場を守りながらも、なぜ新政府軍が会津を討とうとするのかを問うたという。その長岡藩の主張を、岩村は理解できなかった。両者は対立し、談判は不調に終わった。 それから、小千谷の北東、朝日山などで激しい戦いがはじまり、やがて、戦火は越後の山野全体に及んだ。この談判の決裂が、北越戊辰戦争に大きな影響を与えた。」(抜粋)

■観光情報■

所在地:  新潟県小千谷市平成2丁目3−35 
アクセス:  本町西バス停 徒歩約3分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり