旅と史跡の記録

備中松山城

備中松山城

■概要■

現存12天守のひとつ。備中松山藩の居城。藩主は山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿を建て居住した。

中太鼓櫓跡

大手門跡

三ノ丸広場

天守(三重櫓)

天守内

二重櫓

■見どころ■

天和3年(1683年)の水谷勝宗による大改修の際に建てられたとされる天守(三重櫓)、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定されている。また平成9年(1997年)に復元された本丸の五・六の平櫓、南・東御門、土塀などがある。

■歴史■

延応2年(1240年)に地頭に任じられた秋庭重信が臥牛山のうちの大松山に砦を築いたのがはじまり。(臥牛山は大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの峰があり、現在の天守があるのは小松山)。天正2年(1574年)の備中兵乱(毛利氏と三村氏の戦い。三村氏は備中松山城に籠城)の時には、臥牛山一帯が要塞となる。三村氏に代わり毛利氏の所有となり、関ヶ原の戦い後には徳川幕府が城番を置いた。その際に城を改修し、山麓(現在の高梁高校)に御根小屋と呼ばれる御殿を建て、そちらで政務などを行なった。その後池田氏が入城するも後継ぎができず廃絶すると、水野氏が藩主となり、2代・水野勝宗が城の大改修を行い、天和3年(1683年)に現在の天守等が完成した。水野氏も後継ぎの問題で断絶すると、赤穂藩主・浅野長矩が領地を預かることになり、家老の大石内蔵助が1年ほど滞在していた。その後も安藤氏、石川氏と藩主が代わり、板倉勝澄が移ってくると、以後幕末まで板倉氏が藩主となった。明治6年(1873年)の廃城令で山麓にあった御根小屋は破却されたが、天守や櫓、門などは不便な山の上にあったことでそのまま放置され、後世に伝えられた。

■逸話■

現存天守を持つ城で最も標高の高い場所にあるとされる。岐阜県の岩村城、奈良県の高取城と並び日本三大山城にも挙げられる。
幕末の備中松山藩は、藩主・板倉勝静が15代将軍・徳川慶喜の老中首座(筆頭)だったこともあり、戊辰戦争を幕府軍側に属した。朝敵とされ新政府軍から追討されるが、執政の山田方谷は、勝静を隠居扱いにして無血開城を選択する。鳥羽伏見の戦いの際に慶喜と共にいて江戸に同行していた勝静は、日光山で隠居ののちに宇都宮藩預かりになるが、大鳥圭介らの旧幕府軍によって解放され、奥羽越列藩同盟の参謀になり旧幕府軍として五稜郭まで戦った。

■観光情報■

所在地:  岡山県高梁市内山下1 
アクセス:  JR伯備線備中高梁駅 徒歩約1時間半 またはタクシー 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり