旅と史跡の記録

副島種臣生誕地

副島種臣生誕地碑

■概要■

副島種臣の生誕地。

■見どころ■

佐賀城南堀沿いにあった枝吉家の屋敷跡に石碑が建てられている。

■逸話■

マリア・ルス号事件: 清のマカオからペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号は、悪天候で破損した船の修理のため、横浜港に寄港した。船には奴隷のような扱いを受けていた清国人231人が乗っており、数人が監視の目をかいくぐって海中へ逃れ、イギリスの軍艦に救助を求めた。イギリスはこの船を奴隷運搬船と判断し、日本政府に清国人の救助を要請した。 当時外務卿だった副島は、神奈川県権令・大江卓に清国人救助を命じた。 日本とペルーの間には当時条約が締結されていなかったため、政府内には国際問題となることを恐れる声も上がったが、副島は断固として人道主義・日本の主権独立を主張した。

■ガイドパネル■

「副島種臣は、この地で生まれ幼名二郎、父は国学者枝吉南濠。父や兄・枝吉神陽の感化で佐賀藩内の尊王論のリーダーとなりました。 安政6年(1859)副島家の養子になりました。広い教養とともに長崎では、大隈重信と一緒に英学校致遠館の責任者となり、アメリカ人宣教師フルベッキに学んだことが、明治政府の下で外務卿として活躍するのに役立ちました。 明治5年の「マリア・ルーズ号事件」では、助けを求めた中国人を解放したことで「正義人道の人」と国際的に支持され、「日清修好条規」の批准など外交手腕を発揮しました。のち、学識の深さで明治天皇の学問相手(侍講)や内務大臣などを歴任しました。なお蒼海などの号で近代書家、さらに漢詩人としても有名です。墓は高伝寺のほか、東京の青山墓地にもあります。」

■観光情報■

所在地:  佐賀県佐賀市鬼丸町7−7 
アクセス:  博物館前バス停 徒歩約6分 
御朱印/御城印など:  - 
オフィシャルサイト: なし