旅と史跡の記録

補陀山円通寺

補陀山円通寺

■概要■

上野戦争で戦死した彰義隊隊士を供養した。戊辰戦争の遺構として上野の寛永寺の黒門を保存している。

本堂

円通精舎

石造七重の塔

黒門

死節之墓

大鳥圭介追悼碑

榎本武揚・高松凌雲碑

■見どころ■

円通寺の由来が刻まれている永仁4年(1296年)建立の石造七重の塔がある。
戊辰役の上野戦争の遺構として、寛永寺の山門(黒門)が保存されている。また、上野戦争で戦死した彰義隊隊士の墓、榎本武揚、大鳥圭介、高松凌雲、松平太郎、荒井郁之助ら戊辰戦争で旧幕府軍に属した人物の追弔碑がある。

■歴史■

延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が創建したと伝わる。八幡太郎義家(源義家)が奥州征討での賊軍の首48を埋葬し48の塚を築いたことから、観音原と呼ばれていた寺周辺が小塚原と呼ばれるようになった。

■逸話■

八幡太郎義家(源義家)の逸話:
永保3年(1083年)義家が奥州征討へ向かう道中、寺の前で馬が止まったため、義家が寺のことを問うと、老僧が「坂上田村麻呂が開創し、観音菩薩を奉納した。寺の名前は円通寺、この地は観音原という」と答えた。観音像と出会えたことに信を深め、経を読んで眠りについた義家の夢に、老翁が現れ「あなたが奥州へ行き、はじめは施政を行い、後に争いが起こるが、菩薩を念じれば民衆の怨念も消えるだろう」と言った。 夢の通り、苦しみつつも利を獲て勝ち鬨をあげた義家は、48の賊の首を観音原に埋め、供養のために48塚を築いたことから、小塚原と呼ばれるようになった。
彰義隊隊士の墓、上野(寛永寺)の黒門:
明治元年(1868年)上野戦争で戦死した彰義隊隊士の遺体は“賊軍”として放置されていた。当時の住職・佛磨は処罰覚悟で供養し、一時逮捕されるが釈放され、供養の官許も得る。商人・三河屋幸三郎の助力もあり、現在の西郷隆盛銅像の後方の場で火葬し、円通寺に266体を埋葬した。 その縁で明治40年(1907年)、帝室博物館(現在の国立博物館)から“黒門”が下賜された。

■観光情報■

所在地:  東京都荒川区南千住1丁目59−11 
アクセス:  JR・地下鉄日比谷線 南千住駅 徒歩約6分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり