旅と史跡の記録

大谿山豪徳寺

豪徳寺山門

■概要■

彦根藩主・井伊家の菩提寺。井伊直弼の墓所がある。

仏殿

三重塔

法堂(本堂)

招福殿

招福殿

天守閣2

井伊家墓所

井伊直弼墓

■見どころ■

延宝5年(1677年)に建立の仏殿、延宝7年(1679年)に鋳造された梵鐘は区内の現存最古のもの。招福殿に奉納された多くの招き猫が見られる。また、平成18年(2006年)に建立された三重塔には招き猫の彫刻がされている。

■歴史■

文明12年(1480年)建立された弘徳院を、寛永10年(1633年)に彦根藩2代藩主・井伊直孝が伽藍を造営。井伊家の菩提寺となった。

■逸話■

招き猫発祥の地の伝承:
井伊直孝が鷹狩り帰途、寺院の門前にいた住職の飼い猫「たま」が手招きするような仕草をしたため、寺院に立ち寄り休憩をとった。すると休憩中に天候が変わり突然雷雨になったという。雨にあたらずに済んだ幸運に感謝した直孝は、この寺を井伊家の菩提寺と定めた。

■ガイドパネル■

彦根藩主井伊家墓所:
井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く2代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝n没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で作られている。以後、豪徳寺に所在する藩主、正室、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石い混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在す墓石の総数は三百余基になる。彦根藩井伊家は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。

■観光情報■

所在地:  東京都世田谷区豪徳寺2丁目24−7 
アクセス:  小田急小田原線豪徳寺駅徒歩約12分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり