旅と史跡の記録

小塚原回向院

小塚原回向院

■概要■

安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの墓がある

観臓記念碑

吉田松陰、頼三樹三郎墓

橋本左内墓

ねずみ小僧次郎吉、高橋お伝墓

■見どころ■

幕末・安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら、また、義賊・鼠小僧次郎吉(源達信士)、毒婦・高橋お伝(榮傳信女)の墓がある。また、杉田玄白・前野良沢らが“解体新書”を翻訳・出版したことを記念した「観臓記念碑」がある。

■歴史■

寛文7年(1667年)本所回向院の住職・弟誉義観が、刑死者や行き倒れの供養のために開創した寺院。当時は常行堂と称した。現在地には江戸時代に小塚原処刑場があった。

■逸話■

明和8年(1771年)、蘭学者の杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが、解剖学書「ターヘル・アナトミア」の解剖図の正確性を確かめるため、小塚原刑場で刑死者の解剖に立ち会った。

■ガイドパネル■

小塚原の刑場跡:
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そしえ回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはくした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。

■観光情報■

所在地:  東京都荒川区南千住5丁目33−13 
アクセス:  JR・地下鉄日比谷線 南千住駅 徒歩約2分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: なし