旅と史跡の記録

永康山東照院貞源寺

貞源寺本堂

■概要■

幕末江戸の剣術道場・錬武館の道場主、心形刀流の宗家・伊庭家の墓所がある

伊庭家墓所

■歴史■

慶長6年(1601年)に開創。三河国東正寺の住職だった慶誉春公は、徳川家康に「自分が天下を取ったら都に寺を建ててやるから訪ねてくるように」と言われた。のちに家康が江戸城に移り天下人となると、慶誉春公は本尊・阿弥陀如来立像を背負って上京し、鷹狩で江戸城曲輪にいた家康に直談判し、 曲輪内に敷地をもらい寺院を建立したという。のち江戸城の区画整備でお茶の水へ、明暦3年(1657年)の明暦の大火で被災し浅草へ移転。大正期に関東大震災で被災し、現在地に再建された。

■ガイドパネル■

伊庭家は心形刀流兵法の宗家で、九州筑紫出身の大友家の末裔として藤原姓を名乗りました。初代宗家は伊庭是水軒、名は惣左衛門、諱を秀明、流統号を常吟子といいます。幼少より刀槍の術を好み、柳生流、武蔵流などを修め、大和山中で隠者・妻片謙壽斎と出会い本心刀流を開創しました。初代の嫡子、二代常全子秀康は、誤報と教授体系をまとめ、八千余名を指導し、水谷常智子などの優れた門人を輩出しました。血統や技量に因らず人物本位に宗家跡目を決める当流の習いは、この人に始まります。三代常備子直保、旗本に列した四代常勇子秀直、五代常明子秀矩と、火事や宗家急逝といった災厄をよく凌ぎ、道統を守りました。六代常球子秀長は、常智子門流の平戸松浦藩主(後の明治天皇外曾祖父)松浦静山公と書簡を交わし、当流本義の研鑽に努めました。この常球子以降、源氏姓を名乗ります。七代常成子秀渕を経て、八代常同子秀業は、その尚武の気風と竹刀稽古の採用により門人千余名を数え、幕府講武所では直心影流と並び二大流派をなしました。その嫡子・伊庭八郎秀穎は、戊辰の役を最後まで幕臣として戦い、箱館で散ったことでよく知られています。九代常心子秀俊は、講武所教授方から師範役を歴任、明治4年(1871)、八代常同子秀業の末子・想太郎(当時20歳)に跡目を譲りました。十代想太郎は、深慮篤実の人にして、時世激動のなか実業や政治に寄与し、なかんづく教育に貢献しました。50歳のとき不慮の国難に臨み、一身を賭して奸を制して身命を公天に捧げ、明治40年(1907)秋、逝去しました。その遺志により心形刀流兵法宗家は断絶しました。このたび心形刀流宗家歴代の墓石を移築するにあたり、参詣される方々との法縁を喜び、先人の恩徳に感謝し、謹んで記します。

■観光情報■

所在地:  東京都中野区沼袋2丁目19−28 
アクセス:  西武新宿線沼袋駅徒歩約8分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり