旅と史跡の記録

長谷山西光寺

長谷山西光寺

■概要■

甲陽鎮撫隊が甲府へ向かう道中、境内で休息した寺院。門前に近藤勇座像がある

山門

近藤勇座像

仁王門

観音堂

本堂

■見どころ■

門前に近藤勇座像、西南戦争に従軍した地元出身の戦没者の招魂碑がある。仁王門は寺の記録によると宝永年間(1704~1710)再建とされ、市内に唯一残る仁王門である。仁王門の2階に釣られている梵鐘は、享保2年(1717年)に制作されたもので市内では深大寺の梵鐘に次いで古いものである。

■歴史■

応永2年(1396年)の開創と推定される。江戸幕府が開府されると、甲州街道の宿場維持のため上石原宿の中心であった現在の地に移転した。移転後約80年の間に、本堂、薬師堂、観音堂、仁王門などが建立され、弘化4年(1847年)山門が建立された。

■逸話■

近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が甲府へ向かう道中、当寺境内で休息し、門前の名主・中村家で歓待を受けた。

■ガイドパネル■

近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌2年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家4代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。文久3年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新選組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年6月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。然しながら世情の移り変わり激しく、慶応3年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌4年の鳥羽伏見の戦いに破れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。その年3月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待を受けたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利さらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応4年4月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月25日江戸板橋で刑死、時に僅か35歳波瀾万丈の生涯を閉じた。会津藩主、松平容保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を贈りその功績を讃えている。
調布市『近藤勇と新選組の会』は、没後130年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊縁の地西光寺に座像を建立することとした。奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一新を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗を翻した西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑がここに集設あれたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。

■観光情報■

所在地:  東京都調布市上石原1丁目28−3 
アクセス:  京王線西調布駅徒歩約2分 
御朱印/御城印など:  あり 
オフィシャルサイト: あり